本 社 / 宮城県石巻市塩富町2-5-73
設 立 / 昭和61年
事業内容 / 水産加工販売業
〜鮮度のいいものを、美味しさに変えましょう〜
旬は、必ず海にある
オフィスへ続く階段を登ると、そこには数多くの賞状や盾が並ぶ。
農林水産大臣賞や東京都知事賞など様々な受賞歴をもつ末永海産株式会社。三陸の美味しさをまるごと食卓へ届けるために創意工夫を続けてきた。
「我々が美味しいと思うもの、浜で美味しいものが果たして消費者にどう受け入れられているのか、そういった外部的な評価として知ることができるのではということから品評会などに出品し、おかげさまでちょこちょこっと賞をいただいている感じです。」
作っているものが美味しいと言ってもらえるのが目に見えるのは、働いている人のモチベーションにも繋がるのでは・・・控えめにそう話す、末永海産株式会社の末永寛太社長にお話を伺った。
―震災を機に
もともとが漁師の家系。四代目が社長の叔父にあたり、昭和50年に水産加工会社を創業したのが社長の父である現会長。
昭和61年、末永海産株式会社を設立。『鮮度の良いものを鮮度の良いうちに』というコンセプトのもと、水揚げした水産物を小分けにパックして販売してきた。東日本大震災を機に状況が変わった。生産者が減り、水揚げ数も少なくなる中で、同じように水産物を売ってというわけにはいかなくなった。漁師のことも考えていくと加工品を扱わなければということになり、震災後に熱を加えたり味付けをしたりという方向へ転換した。
震災時、工場は2つ。じわじわと水が上がり腰まできた。もともとこの辺りは海抜が低く、さらに地盤沈下で低くなって溜まった水がなかなか抜けない。満潮のたびにこの街全体が水浸しになるような感じで、工場は基礎から何からやられてしまい取り壊した。
一方、海に近い方の工場は浸水もほとんどなく無傷で残ったため限られた現状の中で再開。3月はカキ、ホヤ、ホタテ、ワカメがピークを迎える時期。それがみんな無くなったので、仕事が今後あるかどうか分からなかった。従業員からいろんな話を聞く中で一旦やめて手当をもらった方が良いということになり全員にやめてもらった。
5月に再開した時には当時の社長・現会長と、末永社長、営業マンの3人。その後、戻って来た従業員は48名中5名ほど。この土地を離れた人。海の近くではもう働きたくないという人。それぞれの決断だった。 平成26年に新工場設立。
震災を機に区画整理等で街中に引っ越した人は半島まで1時間もかけて来られなくなった。また、高齢化や後継者不足などの人手不足もあり、漁師も牡蠣むき作業などができなくなった。そうなった時に漁師の仕事の一部を肩代わりできるのではという思いで、水揚げした牡蠣を持ってきてもらい殻から剥いて商品にしようという形に。これは会長が震災前から考えていたそうで、例えば養殖用のロープ1本で収入がいくらという計算になるなか、ロープ半分でいいから半分のワカメを倍の値段で買うと提案した。どの段階で一番美味しいかを知っているからこそ、味しい時に収穫しお客様にも美味しいものを提供できる。末永と組んでいい思いをしてもらいたい。漁師がうちに協力してもいいと思う提案だったり話し合いが、漁師の家系だからこそできるのでは。震災後は一次処理工場として漁師のサポートをしながら三陸の海と向き合ってきた。
画像:左から末永末永海産本社、今までに受賞した賞状、水産加工品作業場と末永社長
―社長は環境対応職
平成27年、社長就任。この時37歳。震災で全部なくなったので位置付けとしては第二創業という形。父の時代から新しいことへの取り組みはしてきた。震災後に再開する時点で加工品にいくということを決め、同時に5年後には社長交代することも決まっていた。
現在は仙台駅の直売店スタッフも含めて社員43名に。
4人兄弟の長男。小さい頃から父の姿を見てきたため、これ以外の仕事は考えていなかった。一旦、水産加工会社に就職しサラリーマンを経験したからこそ色々な立場の働き方がわかる。そして父の下で働いていた時に言われていたことが、社長就任後ようやくわかってきたところだそう。
震災で海が変わってしまった。水温の変化やプランクトンの変化、潮の流れなど全部変わってしまい、以前は水揚げできていたものが取れなくなった。前と同じようにやろうとしてもダメ。海の中の環境に大きな変化があったことを理解し対応していく。
冷凍技術も進み、今では季節感が感じられなくなっている。そんな中でどうやって旬のものを提供するのか、旬の味をどういった形でみなさんに届けられるか、旬を訴求したいと思ってもなかなか難しい部分がある状況で、一番美味しいものを、一番美味しい状態で味わってもらうためにどう加工するか。
「旬は、必ず海にあるから。」と末永社長。
―「リースdeスグのり」を導入するきっかけ
震災で潮をかぶった車をなんとか乗っていたが、いよいよダメになり困っていた時にトラックランドを知った。ランニングコストを考えた時に基本的にはリースにしたくなかったし、浜との往復で距離を走るわけではないので新車を買うつもりでいたが、いろんな手続きを含めるとリースでもいいのかなと。使わなくなったらそれはそれでいいかと考えた。購入の場合は納車まで時間がかかる。トラックを頼んでも1年半待ちという状況。それが2、3ヶ月で用意してもらえたので、リースにして良かったと思っている。
平成28年11月1日よりリース開始。運転する2名のドライバーには「人の車なので丁寧に使いなさい。」と言っている。現場からはもともとアルミウィングの要望があった。それまでは保冷車と平ボディを使っていたが、浜と工場との積み下ろし作業を考えるとアルミウィングが必要だった。リースを入れる前は2台で浜に引き取りに行っていたが1台で済むようになった。アルミウィングにしてから積み替え作業が早くなり、そのぶん早く帰って来られるようになって作業効率も上がった。現場の声もあったのでもう1年続けてみようとなり、2年目は新型レンジャーを導入。
浜が増えてきたので集荷は1台で回せる方がいい。そういう意味では継続して使ってよかったと思っている。コスト的に安いとは言わないけれども、これならいいかなと。
リース車両、大活躍中!
・中型アルミウィング1台
浜で集荷した旬の水産物を、加工工場まで運んでいる。
写真は、昨年11月に旧型車両と入れ替えで導入された、FD新型日野レンジャー。
―今後の展望
「夢とも違うんですけど、普通の会社にしたいなと。」末永社長はそう話す。
ここは水産加工の町、沿岸養殖の町でもある。養殖に携わっている人は多岐に渡る。昔は安い賃金で休みなく朝から晩まで働くのが当たり前だった。それを、普通に週2日休んで、普通に盆正月ゴールデンウィークも休んで、家族と楽しみを持って、自分の楽しみも持って、きちんと給料ももらえてボーナスもしっかりと出て。そんな普通の会社にしていきたいと考えている。その一つとして、これまでは時給雇用が多かったものを、社員は月給にし、昇級システムや週休2日システムを取り入れた。「まだまだだなと思っていますけど。」と末永社長。
働き方改革の流れの中でどういったことができるのか。そのモデルケースになれるような、それを牽引できるような会社になって、若い人が末永で働きたいと思ってもらえればいいと思う。
この土地において、その中心的な役割を担うための取り組みはすでに始まっている。